2008年一学期講義 科目名 学部「哲学講義」大学院「現代哲学講義」    入江幸男

講義題目「アプリオリな知識と共有知」


 

第六回講義 (2008年6月11日)


 

<小レポートの課題>

課題1「自分が何をしているのか知らない場合の、下位分類をしてください」

<織田くんの提案>

1.1)自分がある行為をしていることそのものを知らない場合。

    ホースを踏んでいることに気づかなかった。

何かを踏んでいると思っていたが、ホースを踏んでいるとは知らなかった、というのではなくて、何かを踏んでいるということすら気づいていなかった。

1.2)自分が行なったある行為の持つ本当の(もう一つの)意味を知らない場合。

    オイディプスはライオスを殺すとき、父親を殺していることを知らなかった。

{入江のコメント:ある行為をどのような「記述の下でも」しらない場合が、1.1である。しかし、そこに立っていることは知っていたのではないか。そうだとすると、(1.1)(1.2)の区別は曖昧になる。

 この区別は、行為の記述の変更の違いになるのではないか。

(1.2)は「オイディプスは、ライオスを、殺した」を「オイディプスは、父親を、殺した」と変更するのであり、「Sは、Oを、Vした」の「O」だけを変更したものである。

それに対して、(1.1)は、「私は、立っていた」を「わたしは、ホースを、踏んだ」に変更するのであり、「Sは、Vした」を「Sは、Vを、Oした」に変更し、かつ「V」を変更した。 }

 

<奥村さんの提案>

(1.1)鍵を忘れて家を出てしまった場合。

(1.2)ウォークマンの音量が大きく、知らないうちに他人に迷惑を掛けていた場合。

(1.3)友人を励ますつもりでメールしたのが、友人にプレッシャーをかけることになった場合。

 

<鴻池くんの提案>

(1.1)後から観察によって知る場合

  例:文字を間違って書いている。

(1.2)後から観察と推論によって知る場合

  例:沢山コピーをすったが、それが環境破壊につながっているとはしらなかった。

(1.3)自分では知ることが出来ず、他者の指摘によってのみ知ることが出来る場合。

  例:いびきをかいているのを知らなかった。

(1.4.)他者から指摘できず、自分の観察や推論によって知る場合

  例:A子さんを好きになっているのを知らなかった。

ちなみに、観察なしに推論だけによって知るということはありそうにない。

{入江のコメント:検算によって、計算間違いに気づくという場合はどうでしょうか。それとも計算間違いは、行為ではないというべきでしょうか。}

 

{入江のコメント:計算間違いや、鍵を忘れることは、行為だといえるだろうか。この二つは、失策とか失敗とか言われるものである。これらは行為だろうか。(まず、この質問の曖昧さ、この質問に答えるための規準の曖昧さ、を問題にすべきであろう。)}

 

課題2「「何故・・・すのか?」の答えを知らない場合の、下位分類をしてください」

 


 

§5「私」の実践的知識から「私達」の実践的知識へ(続き)

 

3、集団的行為(動作、動き)の分類

我々は、「我々」を主語にして、我々の集団的意図的行為について語っている。「君たちは何をしているか」と問われて、即座に観察によらずに「僕たちはチェスをしています」とか、「僕たちはバーべキューをしています」と答えることが出来る。これは、「私達」の実践的知識だといえる。アンスコムは、個人の意図的行為を<ある意味で用いられる『何故?』という問に個人が観察によらずに答えられるような行為>と定義したが、これと同じように、集団の意図的行為を<ある意味で用いられる『何故?』という問に集団が観察によらずに答えられるような行為>と定義することが出来るだろうか。

この問題に注意しながら、アンスコムを真似て集団的行為を分類してみよう。

 

(1)「我々が何をしているのか」を知らない場合。

*我々は我々のある行為を「ある記述の下で」は知っているが、「他の記述のもとで」は知らなかった、ということがある。

*事例

・「我々はゲームに夢中になっていて、隣人に迷惑をかけていることに気づかなかった」

・「我々は塹壕を掘っていて、埋蔵金に近づいていることに気がつかなかった。」

*このような行為は、人から指摘されるなどのきっかけによって、観察や推論によって知られる。

 

(2)「我々が何をしているのか」を知っている場合。

2.2)「あなたたちは何をしているのか」に観察や推論によって答える場合。

(a)各人がバラバラな行動していて、それを観察して、報告する場合。

「昼休みにあなたたちは何をしているのか」と言う問に、

  「私たちは、昼食をとります。」

「ほとんどの人は、昼食をとりますが、予習をしたり、自分の本を読んだりし手いる人もいますし、友達とおしゃべりしたりしている人もいますし、キャッチボールしている人もいます。」

   これらは、私達の個々人の行為の記述であって、私達の行為であるとはいないかもしれない。各人が同じ行為をしていても、それだけでは私達の行為であるとはいえない。なぜなら、それらは数的に一つの行為ではないからである。たとえば、教室の全員が、弁当を食べているとき、それを観察して「私達は弁当を食べています」と答えたとしよう。「なぜ?」と尋ねられて、「今は昼食の時間だからです」と答える場合には、私達の行為は、集団的な行為だといえるかもしれない。そこには、一つの行為を行なっているという側面がある。

 

(b)全体で統一した作業をしているはずであるが、何をしているのかを、観察によって知り、報告する場合。

   「あなたたちは何をしているのか」という問に、「私たちは、どんなものか分かりませんが、ICレコーダのようなものを作っています。」と答える場合。

工員が、工場のラインで部品を組み立てているが、最終的な製品がどんなものであるかを知らないという場合。この場合には、最終製品を観察をして、何を作っているかを知ることが出来る。

(c)意図していなかった結果をもたらす場合。

「私達は、ある研究をしていたのですが、その失敗によって、xを発見しました。」

 

(d)上の気づいていなかった行為を、指摘されて、観察に基づいて知る場合。

皆で肥料をまいているつもりが、除草剤をまいていることを指摘されて、そのことを観察に基づいて知る。

 

2.2)「あなたたちは何をしているのか」に観察や推論によらずに答える場合。

2.2.1)「あなたたちは何故・・・しているのか」に答えられない場合。

(a)全体である行為をしており、そのことを全員が知っている場合。

*ある軍需工場の朝礼で工場長から教えられて、今日は、新しいICレコーダの組み立てをすることになり。「あなたたちは何をしているのか」と問われたならば、「私たちは、新しいICレコーダの組み立てをしています」と答えることが出来る。しかし、なぜそれを作っているのかは知らない場合。

   

2.2.2)「あなたたちは何故・・・しているのか」に答えられる場合。

2.2.2.1)「あなたたちは何故・・・しているのか」に観察や推論によって答える場合。

  *集団催眠にかけられて、何かをした後で、そのことを教えられて、行為の理由を知る場合。

2.2.2.2)「あなたたちは何故・・・しているのか」に観察や推論によらずに答える場合。

(a)心的原因?

建物がグラグラ揺れたので、皆が立ち上がったときに、「あなたたちは、何故立ち上がったのか」と問われたら、「地震だからです」と答えるだろう。しかし、この場合には、個々人が同じ行為をしているだけで、我々が一つの行為をしているのではない。

問題「心的原因に似たものが集団的行為の場合にもありうるだろうか?」  

 

(b)動機

 a<過去指向型の動機> 復讐、感謝、後悔、哀れみ

    ある団体は、復讐のためにテロをおこなう。

   「我々は、二度と戦争をしない」

 b<動機一般>虚栄心、愛情、好奇心など

    ある団体は、愛情から、阪神を応援する。

   「僕たちは、阪神を応援している」

 c<未来視向型の動機(意志)>

   「僕たちは、優勝するために、サッカーをしている。」

   「私達は、田植えをしています。」

 

4、「私達」の実践的知識の定義

アンスコムが「実践的知識」と呼ぼうとしたのは、個人の自分の行為に関する知識である。我々は「我々」による集合的行為に関する知識もまた「実践的知識」と呼んでよいと主張したい。それは、つぎのような性質を持っていなければならない。

1、「我々」が主語となっている。

2、「我々は・・・をしている」という現在形の、我々による行為に関する言明である。

3、この知識は、我々による集団的行為の記述ではなくて、集団的行為が成立するための必要条件である、つまり集団的行為の構成要件である。

4、この知識は、正誤の可能性を持つ。しかし、これの知識が間違いであるとわかったときには、我々は知識を訂正するのではなくて、行為を訂正する。